親介護を逃げた兄弟に最後に下る裁き─介護拒否の大きな代償

番号 89

# 介護録

# 制度

「介護しなかった側」が責任を問われる瞬間

先日、全国紙の社会面で「親の介護をめぐり、兄弟間で深刻な対立が起きた家庭裁判所の事例」を紹介するニュースを見ました。

記事によると、認知症を患った母親の親介護を十年以上にわたって担ってきたのは長女一人で、他の兄弟は「仕事が忙しい」「遠方に住んでいる」などの理由から、ほとんど関与してこなかったそうです。

母親が亡くなった後、兄弟たちは遺産分割の場に集まりました。

そこでは、「介護は大変だっただろうが、相続は平等にすべきだ」という主張と、「親介護の負担を一身に背負ってきた現実を無視しないでほしい」という主張が真正面からぶつかりました。

話し合いはまとまらず、最終的に家庭裁判所の判断に委ねられることになったと報じられていました。

裁判所は、長女が行ってきた親介護の内容や期間、通院の付き添いや生活費の負担などを詳細に確認し、それらを「特別の貢献」として評価しました。

その結果、介護を拒否し続けた兄弟の主張はほぼ認められず、相続分は大きく修正されたのです。

さらに記事では、同様に「親にほとんど財産がなかった家庭」であっても、介護を担わなかった兄弟が行政から扶養義務について説明を求められたケースが紹介されていました。

財産があるかないかにかかわらず、親介護を拒否したという事実そのものが、後になって重くのしかかる現実が浮き彫りになっていました。

このニュースを通じて、「親介護から逃げる」という選択が、本当に得なのかどうかを、改めて考えさせられ、押し付けられた家族が損を被らない仕組み作りが絶対的に必要だと強く感じました。

親に財産が「ある場合」──介護を拒否した人に下る法的な不利益

親に一定の財産がある場合、親介護を拒否した兄弟にとって最も分かりやすい不利益は、相続における取り分の減少です。

これは感情論ではなく、民法に基づく正式な法的評価です。

民法第904条の2は「寄与分」という制度を定めています。

被相続人の財産の維持または増加について特別の寄与をした相続人がいる場合、その分を考慮して相続分を調整できるという規定です。

裁判実務では、長期間にわたる親介護は「療養看護」という典型的な寄与行為とされています。

実際の家庭裁判所の審判例では、

 ・要介護状態の親と同居して世話をした

 ・通院や入退院の付き添いを継続した

 ・介護サービスの調整や行政手続きを担った

といった事実が積み重なった結果、数百万円から一千万円近い寄与分が認められたケースも存在します。

その分、介護を拒否し続けた兄弟の相続分は、法定相続分から大きく減額されました。

重要なのは、「何もしなかったこと」自体が処罰されるわけではない点です。

何もしなかった結果、他の兄弟が法的に評価され、自分の取り分が減るという構造が、極めて現実的に機能します。

逃げた兄弟は、後になって「なぜ自分だけ少ないのか」と主張しても、裁判所からは「あなたは寄与していない」という一点で退けられるのです。

さらに2019年の民法改正により、相続人以外の親族でも介護貢献があれば「特別寄与料」を請求できる制度が創設されました。

これにより、介護を担った人の評価は一層明確になり、介護拒否者の相対的不利は拡大しているといえます。

親に財産が「ない場合」──それでも逃げられない責任

一方で、「親に財産がないなら、介護を拒否しても損はない」と考える人は少なくありません。しかし、法律実務と行政現場を見ると、この認識は極めて危険です。

親に財産がない場合、相続争いは起きません。しかし代わりに浮上するのが、**扶養義務(民法第877条)**と行政対応の問題です。子どもには、経済的・生活的に親を扶養する義務があるとされています。これは、親が困窮している場合ほど、現実的な問題として現れます。

生活保護申請の際に行われる「扶養照会」、医療費の未払いが生じた際の家族確認、施設入所時の身元引受人問題など、親が財産を持たない場合こそ、子どもへの責任追及は顕在化します。

ここで、親介護を一切拒否し、連絡も取らず、手続きにも関与しなかった兄弟は、
「なぜ扶養義務を果たさなかったのか?」
「なぜ他の兄弟にすべてを押し付けたのか?」

という説明を、行政や関係機関から求められる立場に立たされます。

一方で、押し付けられた人は、親の生活を維持するために動いた事実が、行政記録として残ります。生活保護の申請、成年後見の相談、医療同意、福祉サービス調整などを担った実績は、「責任を果たした家族」として公式に評価されます。

これは金銭的な報酬こそありませんが、社会的・制度的な信用という極めて大きな差を生みます。将来、自分自身が支援を必要としたとき、この差は想像以上に効いてきます。

財産の有無を超えて、最後に得をするのは誰か

親に財産がある場合でも、ない場合でも、共通して言えることがあります。それは、親介護を拒否した人は「楽をした代償」を必ず後から支払うという点です。

財産がある場合は、
・相続分の減少
・家庭裁判所での不利な評価

という形で、目に見える損失として返ってきます。

財産がない場合は、
・扶養義務を果たさなかったという記録
・行政・親族からの信用低下
・将来自分が支援されにくくなる立場

という形で、じわじわと人生に影響を及ぼします。

一方で、親介護を押し付けられた人は、確かにその時点では割に合わない苦労を背負います。しかし、その行動は
・法的正当性
・社会的信用
・心理的な納得感

という形で、確実に自分の側に積み上がっていきます。

裁判例や行政実務が示しているのは、「介護は美談だから評価される」のではなく、「介護という現実的な責任を引き受けた事実」が、制度の中で冷静に評価されているということです。

親介護を拒否した兄弟は、今は自由に見えるかもしれません。しかし、財産があってもなくても、その選択は決して“逃げ得”では終わりません。法と社会は、時間差で必ず帳尻を合わせにきます。

一方で、押し付けられたあなたは、すでに「責任を果たした人」という揺るぎない立場に立っています。その事実は、相続でも、行政でも、そしてあなた自身の人生においても、必ず意味を持ちます。

理不尽さに押しつぶされそうになる日があっても、その苦労は決して無駄にはなりません。
記録を残し、制度を使い、必要なら第三者を頼りながら、自分の立場を守る行動をしてみてはいかがでしょうか?

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