あの父親を、今でも尊敬している
番号 156
息子をかばわない父親
「俺、親父のことは今でも尊敬しているんだよ」
同僚がそう話し始めたのは、昼休みの何気ない会話の中でした。
同僚の父親は、誰もが知る大手企業で役員まで務めた人でした。
仕事には人一倍厳しく、妥協を許さない。その厳しさがあったからこそ、周囲から信頼され、出世していったのだといいます。
ただ、息子である同僚にとって、父親は決して優しいだけの存在ではありませんでした。
高校時代の同僚は、いわゆるヤンキーでした。
学校で問題を起こし、教師から呼び出されることも珍しくありません。
ある日、とうとう大きな問題を起こし、父親が校長室に呼び出されました。
事情を聞いた父親は、息子をかばうどころか、校長に向かってこう言ったそうです。
「人に迷惑をかけるようなヤツは、一人で生きていけばいい。だから、こいつを学校からクビにしてください」
息子にとっては、親に見捨てられたと思ってもおかしくない言葉です。
しかし、父親は自分の息子だからといって、悪いことをした事実をなかったことにはしませんでした。
誰かに迷惑をかけたのなら、責任を取らなければならない。父親は、そう考えていたのです。
「悔しかったよ。でも、親父が言っていることは正しかった。自分の子どもだからって、何でも許すわけじゃないんだよな」
同僚は、そう振り返りました。
その後、同僚は少しずつ自分の行動を改めていきました。
父親の厳しさは、息子を突き放すためのものではなかったのかもしれません。
少なくとも同僚は、そう受け止めていました。
それから何十年もの月日が流れました。
同僚も家庭を持ち、仕事に追われる毎日を送るようになりました。
一方、父親は高齢になり、介護施設で暮らすことになったのです。

譲れないもの
施設で暮らし始めた父親は、最初のうち、特に大きな問題もなく過ごしていました。
ただ、面会に行くたびに、施設のサービスについて細かな話をするようになりました。
「食事が出てくるのが遅い」
「職員によって対応が違う」
「頼んだことを、きちんとやってくれない」
父親は長年、仕事の品質に厳しく向き合ってきた人です。
息子も最初は、「昔から細かいところに気づく人だからな」と思っていました。
実際、施設側に改善してもらったほうがよいこともあったのでしょう。息子も、必要なことは施設に確認していました。
ところが、次第に様子が変わっていきました。
ある日、面会に行くと、父親はひどく不機嫌でした。
「担当の職員を呼べ。あんな対応で、よく仕事ができるものだ」
話を聞くと、職員が忙しく、父親の頼みへの対応が少し遅れたことがきっかけだったようです。
「少し待ってもらっただけじゃないのか?」
息子がそう尋ねると、父親は顔をしかめました。
「金を払っているんだぞ。客の要求に応えるのは当然だろう」
息子は違和感を覚えました。
仕事に厳しいことと、相手を見下すような言い方をすることは違います。
それでも、息子はその場では何も言いませんでした。
高齢になり、思うように体が動かなくなった父親には、苛立ちもあるのかもしれません。施設で暮らす不自由さもあるのでしょう。
ところが、それからも同じようなことが続きました。
職員の説明に納得できないと声を荒らげ、責任者を呼ぶように要求する。対応した職員に対して、能力がないと決めつける。
父親の言動に困り果てた職員たちは、次第に父親の部屋を訪ねることにも緊張するようになっていました。
ある日、施設から息子に連絡が入りました。
「一度、ご家族にもお話ししたいことがあります」
施設を訪ねると、責任者は慎重に言葉を選びながら話し始めました。
「お父様には、サービスについてご意見をいただくこと自体は問題ありません。ただ、職員を大声で叱責したり、人格を否定するような発言をされたりすることが続いています。職員も精神的に負担を感じております」
そして、こう続けました。
「このままでは、カスタマーハラスメントに当たる可能性もあります」
息子は、すぐには返事ができませんでした。
父親が職員に厳しいことを言っているのは知っていました。しかし、そこまで深刻な状況になっていたとは思っていなかったのです。
その日の夕方、息子は父親の部屋を訪ねました。
「施設の人から話を聞いたよ。職員さんに、かなり厳しいことを言っているらしいね」
父親は、少しも悪びれる様子がありませんでした。
「事実を言っているだけだ。きちんと仕事をしていれば、文句など言わん」
「でも、言い方というものがあるだろう」
「お前まで、あいつらの味方をするのか」
父親は不満そうに顔を背けました。
息子は、それ以上何も言えませんでした。
父親の言い分にも、理解できる部分はあります。お金を払ってサービスを受ける以上、改善を求めることは悪いことではありません。
しかし、相手にも感情があり、限界があります。
どれだけ正しいことを言っていたとしても、相手を傷つけ、追い詰めてよい理由にはならないのです。
数日後、施設から再び連絡が入りました。
今度は、施設長も同席して、父親本人に話をしたいとのことでした。
息子は、父親と一緒に施設長のもとへ向かいました。

父親に返された言葉
施設長は、父親と向き合い、落ち着いた口調で話し始めました。
「これまで、職員の対応についてさまざまなご意見をいただいてきました。改善すべき点については、施設として真摯に受け止めております」
父親は、腕を組んで聞いていました。
「ですが、職員を怒鳴りつけたり、人格を否定したりする言動については、これ以上看過できません」
「私は、金を払っているから当然のことを言っているだけだ」
父親は、いつもの調子で言い返しました。
施設長は、ひるみませんでした。
「お金をいただいているからこそ、私たちには責任があります。しかし、お金をいただいているからといって、職員が何を言われても耐えなければならないわけではありません」
父親の顔が険しくなりました。
施設長は、さらに続けました。
「お父様が求めているのは、質の高いサービスなのだと思います。それ自体は当然のご要望です。ただ、職員も一人の人間です。威圧したり、傷つけたりすることは、サービスの改善とは別の問題です」
「私の言っていることが間違っているとでも言うのか」
「ご指摘の内容が正しいかどうかと、相手を傷つけてよいかどうかは別です。職員が安心して働ける環境を守ることも、施設長である私の責任です」
施設長は、父親の目をまっすぐに見ました。
「今後も同様の言動が続く場合は、施設として対応を検討しなければなりません。どうか、ご理解ください」
父親は、納得できないという表情を浮かべていました。
そのとき、隣で黙って聞いていた息子が口を開きました。
「親父。俺が高校生のときのこと、覚えてるか?」
父親は、怪訝そうな顔をしました。
「高校生のとき? 何の話だ」
「俺が学校で問題を起こして、親父が校長先生に呼ばれたときのことだよ」
父親は、少し黙ってから答えました。
「お前が悪いことをしたんだから、仕方がないだろう」
「そうだよな。俺が悪かった」
息子はうなずきました。
「でも、あのとき親父は、校長先生にこう言ったんだよ」
そして、あの日の言葉を口にしました。
「人に迷惑をかけるようなヤツは、一人で生きていけばいい。だから、こいつを学校からクビにしてください、って」
父親は何も言いませんでした。
「俺、あのときは本当に悔しかったよ。でも、後になってわかったんだ。親父は、自分の息子だからって、悪いことを許さなかったんだよな」
息子は父親の目を見つめました。
「俺は、そんな親父を尊敬していたんだよ」
そして、静かに言いました。
「だから、今の親父を見ていると、悲しいんだよ」
父親は、息子から目をそらしました。
息子は、もう一度、父親に向き直りました。
「親父。人に迷惑をかけるヤツは、一人で生きていけばいいんだろ?」
部屋の中が静まり返りました。
父親がかつて息子に突きつけた言葉。それが、何十年もの時を経て、今度は父親自身に返ってきたのです。
長い沈黙の後、父親はうつむきました。
「……俺は、そんなつもりじゃなかった」
施設長が静かに答えました。
「そのつもりがなかったとしても、職員が傷ついていることは事実です。これから、どうしていくかを考えていただければと思います」
父親は、しばらく何も言いませんでした。
やがて、かすれた声で口を開きました。
「……俺が、間違っていたのかもしれんな」
数日後、父親は施設長と職員たちに謝罪しました。
「今まで、きつい言い方をして申し訳なかった。仕事に厳しいことと、相手を傷つけることは違うんだな」
もちろん、それですべてが変わったわけではありません。
ときには不満を口にすることもありました。それでも、以前のように職員を怒鳴りつけることは少なくなり、何かを頼むときには「お願いします」と言うようになりました。
ある日、息子が面会に行くと、父親が照れくさそうに話しました。
「この前、職員さんがよくやってくれてな。礼を言っておいたよ」
息子は、うれしそうに笑いました。
「そうか。よかったな」
父親は、もう会社の役員ではありません。誰かに指示を出す立場でもありません。
けれど、人として大切なことは、立場が変わっても変わらないはずです。
息子は今でも、父親を尊敬しています。
間違いを犯さない人だからではありません。
自分の間違いに気づいたとき、逃げずに向き合うことができた人だからです。
