毎晩、施設から逃げ出そうとする父。その理由を知った家族は言葉を失った
番号 159
夜になると、父は姿を消そうとした
「また、お父さんが外に出ようとしているんです」
介護施設から電話がかかってきたのは、父親が入所してから3週間ほど経った頃でした。
父親の名前は正男さん、82歳。妻を亡くしてから一人暮らしを続けていましたが、認知症の症状が進み、火の消し忘れや道に迷うことが増えたため、長男の健一さんが施設への入所を決めました。
最初は、父親も納得していたはずでした。
ところが、入所して数日すると様子が変わり始めました。
夕食が終わると落ち着かなくなり、玄関に向かって歩き出すのです。
「帰らなきゃいけないんだ」
職員が声をかけても、父親は聞き入れません。
ある夜は、玄関の自動ドアが開くタイミングをうかがい、別の日には非常口の場所を探していたそうです。
「家に帰りたいんでしょうね」
健一さんは、そう考えていました。
しかし、父親が帰ろうとしている家は、もうありません。
長年暮らした自宅は、母親が亡くなった後に売却していたのです。
面会に行くたびに健一さんは説明しました。
「お父さん、もう家はないんだよ。ここにいれば安心だから」
父親は、そのたびに不満そうな顔をしました。
「そんなことは分かってる。だから困ってるんだ」
健一さんには、その言葉の意味が分かりませんでした。

父が毎晩向かおうとしていた場所
ある日、施設の職員から、少し気になる話を聞きました。
「お父様、玄関に向かう前に、いつも時計を確認されるんです」
「時計ですか?」
「はい。夕方の6時半頃になると、急にそわそわされるんですよ」
さらに職員は続けました。
「それと、外に出ようとするとき、いつも同じことをおっしゃいます」
「何と言うんですか?」
「『あの子が待っているから』と」
健一さんは首をかしげました。
あの子とは誰のことでしょうか。
父親には孫がいますが、夕方に迎えを待つような予定はありません。
次の面会の日、健一さんは父親に尋ねました。
「お父さん、毎晩どこに行こうとしてるの?」
父親は少し考えてから答えました。
「迎えに行くんだよ」
「誰を?」
「だから、あの子だよ」
「誰のこと?」
父親は、少し苛立った様子で言いました。
「お前には関係ないだろ」
話はそこで終わってしまいました。
健一さんは、施設に迷惑をかけていることを父親に注意しようとしました。
しかし、そのとき職員が提案しました。
「一度、お父様が昔どんな生活をされていたか、教えていただけませんか?」
健一さんは、父親の若い頃の話を思い出しました。
父親は長年、町工場で働いていました。仕事が終わるのは夕方6時頃。帰宅する前に、必ず寄る場所があったそうです。
それは、自宅近くの小さな学童保育所でした。
健一さんが小学生だった頃、母親がパートに出ていたため、父親が仕事帰りに迎えに来てくれていたのです。
「まさか……」
健一さんは、あることを思い出しました。

父が待っていたのは、50年前の息子だった
次の面会の日、健一さんは父親の隣に座りました。
「お父さん。昔、俺を学童に迎えに来てくれてたよね」
父親は、少しだけ表情を変えました。
「ああ。お前、いつも最後まで残ってたからな」
「そうだったね」
「遅くなると寂しそうな顔してたんだよ。だから仕事が終わったら、急いで迎えに行ったんだ」
父親は、窓の外を見ながら話し始めました。
「お前、待ってるだろ。早く行かないとな」
健一さんは言葉を失いました。
父親が毎晩施設を抜け出そうとしていた理由。
それは、50年以上前の自分を迎えに行こうとしていたからでした。
父親の頭の中では、夕方6時半になると仕事が終わり、幼い息子が学童保育所で待っているのです。
今の自分が施設にいることも、息子が50代になっていることも、父親の中ではつながっていませんでした。
健一さんは、しばらく父親の手を握っていました。
「お父さん、俺はもう大丈夫だよ。ちゃんと大人になったから」
父親は、健一さんの顔をじっと見ました。
「そうか。大きくなったな」
そして、少し笑いました。
その日、父親は夕方になっても玄関に向かいませんでした。
職員が驚くほど、穏やかに過ごしていたそうです。
もちろん、翌日にはまた同じように外へ出ようとすることもありました。
それでも健一さんは、もう父親を叱ることはありませんでした。
「お父さん、今日は俺が迎えに来たよ」
そう声をかけるようになったのです。
認知症になると、今の時間と昔の時間が混ざり合うことがあります。
家族から見れば、何度説明しても理解してくれない困った行動に思えるかもしれません。
けれど、その行動の裏側には、本人なりの理由や大切にしてきた思いが隠れていることもあります。
父親は、家族に迷惑をかけるために施設を抜け出そうとしていたわけではありません。
50年前と同じように、仕事帰りに息子を迎えに行こうとしていたのです。
ずっと昔に終わったはずの父親の一日は、今も夕方6時半になると始まっていました。
そして健一さんは思いました。
今度は自分が、父親を迎えに来る番なのかもしれない、と。
